たんす屋ニュース

Just another WordPress.com site


コメントする

東京山喜賞、大賞、マルイオーディエンス賞、豆千代賞など決まりました

まずは東京山喜賞はこちらです。

大賞です

そして、マルイ新宿本館6Fで1000人以上の投票を受けた中でトップ得票を獲得した作品がこれです。

さらに豆千代賞は大胆な袴姿

広告


コメントする

ふりそでの話

ふりそでは未婚の女性の第一礼装ですが、昔はどんな時に・何歳ぐらいで・どんな娘が着ていたんでしょう。 さあ、解き明かしていきましょう。

江戸の大事件の1つに「振袖火事(明暦の大火)」があります。その年、明暦3年(1657)は、新年早々からしきりに火事が起こっていた。 元旦には四谷竹町から出火、4日5日にも続けて火事騒ぎがあった。

冬の江戸は雨量が少なく、空っ風が吹くのは例年のことだが、前年の11月からこの年にかけてはことに異常気象で、一滴の雨も降らなかった。 乾ききった空気は、ちょっとした不始末からたちまち火事をよんだ。

「いやな風が吹くねぇ」
正月18日は朝から、乾(北西)の強い風が吹き荒れ、戸障子を揺さぶり、道の土埃を舞わせた。
江戸庶民は寒さに肩をすくめながら、不安げに囁き交わした。
昼少し過ぎに、本郷本丸の本妙寺の門前にはちょっとした人だかりができた。
本堂では読経が始まっていた。
「噂どおり、お供養をするのかい」
「振袖を焼くたぁ、珍しいじゃねぇか」
「何とももったいない話だね」
「けど、おめえ。とんでもねぇ因縁つきの振袖だってぇじゃねぇか。
いっそ焼いちまうのがいいのさ」
「若い娘が三人も……だってぇからね」
「くわばら、くわばら」
人々は、そそけ立った顔を見合わせた。それは、2年前の話に始まる──。

明暦元年(1655)、日も同じ1月18日、この本妙寺へ布施として一枚の振袖が納められた。 紫縮緬の大振袖に、荒磯と菊を染め出し、桔梗の縫紋を付けた目のさめるように華やかな柄行であった。
この振袖を身にまとったのは、むろん年若い娘で、名は梅野。麻布百姓町で質店を営む遠州屋彦左衛門の一人娘であった。
承応3年(1654)の春、梅野は母に付き添われて上野の山へ花見に出かけた。

当時、花見は芝居見物とともに、女の大きな楽しみの一つであった。
江戸時代の中流以上の家庭の婦女子というのは、今考えるよりはるかに、外出の機会が少なかった。他国への旅行など、女は滅多にできなかったし、買い物に出歩くということさえまずなかった。いったん、外出するとなると、娘ならば母親か乳母、上女中が付き添い、妻女には女中などの供がつく。町内の稽古所や銭湯を除けば、一人歩きなどというものは殆どなかった。それだけに、年に数えるほどの物見遊山は、心躍る楽しい出来事であった。

梅野も早くから花見振袖を新調し、その日がくるのを指折り数えて待っていた。
遠州屋も大切な一人娘を今日を晴れと着飾らせ、母、乳母、女中のほか、店の若い衆に提重などを持たせ、小袖幕の用意などして賑々しくくりこんだ。
母をはじめ、女中や店の者に取り巻かれ、美しく装った梅野は、花の間を逍遙しながら野に放たれた小鳥のように、うきうきと心が弾んだ。
艶やかな頬は上気し、興奮から目は輝いていた。通りすがりに同年輩の娘の衣装に素早く目を走らせては自分の衣装と比べて、品定めするのも忘れない。
その時、前方から、目を奪うように派手やかな衣装を着た者が近づいてきた。
女ではなく、前髪立の寺小姓であった。──なんと見事な。
相手の衣装を見、ついで顔を見て、梅野は息を呑んだ。
雪をあざむく白い額に、前髪がはらりとふりかかって、彫り込んだようにくっきりした目鼻立ちといい、これまでに見たこともない美少年であった。
当時、不邪淫戒を守る僧侶は、競って美しい寺小姓を置いて寵愛したが、わけても上野寛永寺の寺小姓は、粒選りと定評があった。

(この日本画は鈴木晴信の寺小姓と上臈)



あっと思う間に少年は人混みに紛れてしまった。 が、その面影は梅野の胸に焼き付いて離れなかった。2、3日して、梅野は母に新しい振袖がほしいとねだった。紫縮緬に荒磯と菊を染めるようにと、色や柄についても細かく注文した。
母は言うなりに、染物屋へあつらえてくれた。
振袖が仕立て上がってきた日、梅野は人目のないところで、その衣装をひしと胸に抱いた。
梅野はその振袖に手を通そうとしなかった。
その代わり、枕に着せて、生きている人に語るように問答した。
──いじらしくも、梅野は最初から恋をあきらめていた。「まあ、十五にもなって、まだ人形遊びかえ」
母も乳母も笑ってみていたが、そのうちに様子がおかしいと気付きだした。
梅野は始終、軽い熱を出し、弱々しい咳をするようになっていた。
俗に言う“恋煩い”である。梅野が片思いに悩んでいると知って、両親は当惑した。
しかし、日に日に弱ってゆく娘を見るに耐えかねて、上野あたりの寺小姓らしいというのを手がかりに、懸命に探し回った。
だが、いっこうにそれらしい少年の所在はつかめなかった。
──掴めなかったのではなく、娘に“不しだら”の汚名のつくことを恐れて、あえて少年と会わせなかったに違いない。
花見の日には母親も乳母も同行していた。恋に患うほどの娘の変化を見過ごすとは思えない。とうの昔に少年の顔は知れていたろうが、わからぬふりを続けていたのだろう。 そのうちに、娘も諦めるに違いないと践んでいたことだろう。
しかし、梅野はしだいにやせ衰えて、翌年の正月、あの振袖をしっかり抱きしめたまま、露のように儚く亡くなった。嘆き悲しんだ両親は、娘の思いの残る振袖を菩提寺の本妙寺に納め、冥福を祈ることにした。さて、寺としては、華美な振袖を手元に置いてもしかたない為、出入りの古着屋へ売り渡された。
そして、その一年後の正月十六日、振袖は再び本妙寺へ荷われて来た。棺の主は「おきの」といい、上野山下で紙を商う大松屋又蔵の娘であった。
葬儀のあと、大松屋は、「娘のたいそう大切にしておりました振袖でございます。なにとぞ、こちらへお納めを」と申し出た。
本妙寺では、だまって振袖を受け取った。そしてまた翌年の正月、三度、あの振袖を目にして、寺のものは目を見合わせた。
この度は本郷元町に住む麹商い喜右衛門の娘「おいく」の棺に掛けられていた。梅野の妄執が残って、他の娘たちに祟りをなすのであろう。
江戸人たちは、因縁の絡まる振袖の噂でもちきりだった。
男も女も怖いもの見たさから、振袖供養の当日、本妙寺へ集まった。
未の刻(午後2時ごろ)、さかんな施餓鬼の行われ、僧たちが庭火を囲んで声高く経を誦する間に、振袖が火中に投じられた。
燃えさかる炎はたちまち紫の振袖を包むかに見えた。と、そのとき一陣の突風が巻き起こり、あっという間もなく振袖を引っさらった。 目に見えぬ強い力に引かれるように、虚空高く舞い上がり、下から見上げる人々の目にそれは、人の立ち上がって手を広げた姿そのままに見えた――。
 
一面に火のついた振袖は、八十尺といわれる本堂の屋根に引っかかった。
火の粉が雨のように降り注ぎ、人々が大騒ぎする間に、本堂の棟木に燃え移った。
こうして本堂から出た火は、その日のうちに江戸八百八町の大半を焼き尽くしたのだった――。

 「振袖火事」と呼ばれる明暦の大火の死者は十万八千余。
当時の江戸の人口は三十五万余であったことからも、 関東大震災や第二次世界大戦にも等しい大きな災害であったのがうかがえる。
火は一晩で、湯島、神田辺、浅草御門内町屋、通町筋、鎌倉河岸、京橋八丁堀、霊岸島、 鉄砲洲、海手、佃島、深川までをなめ尽くし、江戸城本丸、天守閣もこのとき炎上した。

いったんは収まった火事であったが、翌日の19日巳の刻(午前10時)過ぎ、小石川伝通院前新鷹匠町から再び燃え出し、 牛込御門、田安御門、神田橋御門、常盤橋御門、呉服橋御門、八代洲河岸、大名小路、数寄屋橋御門前を焼き払った。
また同日、番町から出た火は、半蔵御門外、桜田虎御門、愛宕下、増上寺門前札の辻、海手までを焼いた。
羅災したものは、万石以上の大名屋敷が500余、旗本屋敷が770余、神社仏閣350余、町屋400町、片町800町との記録が残っている。このあまりにも多くの焼死者を葬るために、本所回向院は作られた。
場所は墨田区両国2丁目だからたんす屋本部の近くですね。

さてこれでお分かりのように、江戸時代の適齢期は梅野・おきの・おいくの3人の娘達が数え年で17歳だったというから、今の満年齢で15〜17歳くらいだったようです。江戸川柳に「厄よけへ行く振袖は売れ残り」という句がある。 江戸の娘達は、川崎大師へ19才になると厄除けに行くのがならいであった。ベストセラーになった西鶴の「好色一代女」に娘盛りを15~18才とあるから、振袖を着て厄除けに行く娘は売れ残りということになる。19歳それも数えで売れ残りとは厳しいものがある。

つまり振袖本来の色柄が似合う年齢は15歳〜17歳だということですね。元来19歳の厄年は『女の十九は死ぬか孕むか』と言われたそうで、結婚して第一子を産む年齢で産褥で命を落とすこともあったので厄年なんだそうです。

20歳を超えると「年増」(としま)と呼ばれ、25歳を過ぎれば「中年増」、30歳を超えればその名も恐ろしい「大年増」と呼ばれた。女性の中には 嫁き遅れたと思われるのが嫌で、未婚でも眉を剃ったり、お歯黒をしたりしたという。 これも人生50年とすれば、ちょうどその半分が中年増なんですね。 現代では若い男に人気の菅野美穂ちゃんが33歳ですし、ミドルに人気の黒木瞳は50歳ですものね。







コメントする

海老茶式部(袴ネタ2)

下田歌子という明治の女子教育界の巨星がいます。
安政元年岐阜県に生まれ、士族の娘ながら宮中女官となって明治天皇・昭憲皇太后の信任も篤く、1885(明治18)年、学習院女子部の前身である「華族女学校」開設時には幹事兼教授に任ぜられ、翌年校長谷干城入閣後、学監となり校長事務を代行しました。 現在の女袴は、下田歌子が創案したものと言われています。

スカート状の行灯(あんどん)袴であるためトイレの便が良く、背中に腰板もなく優美であるのは宮中袴の流れです。なにしろ着付けも楽で、半巾帯ですから帯枕なしですから、帯枕の紐がみぞおちに当たらないからたくさん食べられるし、おはしょりがグジャグジャでも袴を履くから見えない。サイズが小さくなっておはしょりが取れない着物でも構わない。こうして時代にマッチして実用性に優れた「装束の申し子」女袴が生まれたのです。裾を気にすることなく颯爽と歩くことが出来る袴姿は、新しい時代の女学生の若々しい姿を象徴するものとなったのです。

銘仙の2尺袖きものプラス2尺袖羽織の女学生です。

現在でも学習院中・高に似せた制服が全国の私立学校で見受けられますが

身分制度の色が濃く残っていた明治時代ならばなおさらで、女学生の袴姿はまたたくまに普及しました。華族女学校の袴はカシミア製で色は海老茶。紫がかった暗赤色です。これは下田歌子が、宮中袴では16歳未満の色とされる「濃色(こきいろ)」をもとに発案したことは容易に想像されます。全国の女学校でもこれにならったため、女学生のことを紫式部になぞらえて「海老茶式部」と呼ぶこともありました。なお、海老茶のエビは、本来は「蒲萄」と書いてエビカズラ(ヤマブドウ)の色のことですが、のちに伊勢エビの色になぞらえて、「海老茶」と書かれることが一般化しました。

スタンダードであった海老茶に対して、独自の色彩を主張したのが跡見女学校です。
跡見花蹊は公家屋敷(姉小路邸)内で私塾を開いていましたが1875(明治8)年、跡見学校を開校しました。私塾時代も公家の子女を集めていましたし、当時のことですから生徒のほとんどは華族などの上流階級の子女でした。
跡見学校も女袴をいちはやく導入。その紫色の袴は東京市民の目を引き、海老茶式部に対して「紫衛門」とも呼ばれました。これは平安の歌人である赤染衛門になぞらえたものです。

さて、そんな女学生を主役に大ヒットした漫画が大和和紀の「はいからさんが通る」でした。1977年(昭和52年)度、第1回講談社漫画賞少女部門受賞した事でも有名です。

卒業式を迎える娘のいるお母さんで知らない人は居ないんじゃないでしょうか? さらには南野洋子主演で映画まで作られて、さらにはTV2時間ドラマもCXとTBSで作られていました。

時は大正。「はいからさん」こと花村紅緒(はなむら べにお)…すごい名前だね。そして許嫁青年将校・伊集院忍(いじゅういん しのぶ)…凄い名前!さらには藤枝 蘭丸(ふじえだ らんまる)や北小路 環(きたこうじ たまき)が脇を固める。 ふ〜、このへんで終わろうっと。


コメントする

Tokyo135°千葉店お引越し

駅ビルペリエ1から、駅から徒歩10分のPARCOに引越しです。

駅ビルは5年の歳月をかけて耐震工事を兼ねたリニューアルです。2月2日ペリエからパルコへ2往復して什器と商品を全て運び出しました。

そしてPARCO3Fに2月6日(日)オープン致しました。

もとのお店は夜のお姉さま方のロングドレスなどを扱っていた店舗です。什器はそのまま使っています。

坪数はペリエ10坪 →パルコ18坪です

茶色の床が135らしくは無いですね。

今までと違って入り口が2箇所、万引きが少し心配です。

こんなウィンドウ?でも無いガラスを嵌めた壁が四方を取り囲んでいます。

まだまだ勝手が分からず、大変です。

基本はポールハンガーなんです。

ちょっと通路が狭いかなぁ?

1階上の4階がメンズのフロアなので、男物初挑戦です。

レジカウンターとたたみ台です。

さてさてこれで全部ご覧頂きましたかね? ちなみにこの3Fは「しゃら」が入っています。

どうかよろしくお願い致します。

店長 麻生 スタッフ 中島 あっ!忙しくて石橋さんの写真撮り忘れた!ごめんなさい!メールで送ってください、追加でこのページに載せますから…

お待たせしました。今届きました石橋さんの画像です。洋MIXスタイルでPARCOのヤング客にアピールしています。

 


コメントする

宝塚と緑の袴

実はあの緑の袴と黒紋付は宝塚音楽学校の卒業式だけのものだと思っていたんですが、タカラジェンヌと緑の袴と黒紋付は退団するまでの付き合いだったんですね!

毎年5月末になると宝塚音楽学校生徒による“すみれ売り”が行われます。これは募金活動の一環で、本科生と入学したての予科生が緑の袴姿ですみれの造花を売り、募金を募るというもの。
予科生にとってはこの日が初めて、タカラジェンヌのタマゴとして人前に出るイベントであり、また憧れの緑の袴を初めて着用できる日でもあります。
4月初めの宝塚音楽学校合格発表の日、晴れて予科生となった合格者たちはまだ喜びの興奮さめやらぬ中、グレーの制服と黒紋付の着物、そして緑の袴の採寸をします。仕立てるのはもちろん阪急百貨店。
そう! これが着たかった! 舞台に立つようになってからの豪華な衣装より、今はコレ! グレーの制服の着用は2年間で終わりますが、紋付と袴はタカラジェンヌである限り、ずーっとお付き合いするわけです。
宝塚をあまりご存知ない方の中には「緑の袴はタカラジェンヌの制服。だから毎日のように着る」と思っていらっしゃる方が結構大勢いますが、これは大きな間違い(そ、そんな、め、面倒くさいことイヤだ……)。
実は一年の内にほんの数回しか着ません。それはやはり特別な時。簡潔に言ってしまうと、宝塚歌劇団の生徒として式典やイベントに出席する時。
例えば――花束贈呈などをするイベントや何かの記念式典、元旦に新年の挨拶をする拝賀式、海外公演先でのレセプション、観桜会、劇団葬などなど。文化祭や初舞台、退団公演の千秋楽、記念式典など舞台上で着る時もあります。
また身内や知人の冠婚葬祭にも着用できます。「今日はちょっと着たい気分!」と気軽に着ていいものではないんですね。
袴の上の着物は黒紋付の時と、それぞれ好みの柄物の時があります。どちらにするかは劇団からの指示があり、格式高い式典や葬儀の時などは黒紋付、華やかさを演出する時は色物といったところでしょうか。
黒紋付での草履は白、葬儀では黒。色物での草履は自由。娘役が髪飾りを付ける場合は緑のリボン。葬儀の場合は黒。
さてそれでは『緑の袴・着付け講座』!
まず足袋をはき襦袢や胴布団など下着を付け、黒紋付なり色物の着物を着ます。普通に着て……と言いたいところですが一箇所だけ違う。丈を思いっきり短く、膝下ぐらいに着ます。長く着ると裾が袴から出てしまうから(この状態は童のようで男役さんでも結構かわいい!)。次に幅の狭い黒い帯を後で文庫結びにします。
そしてプリーツスカートのような袴をはく。袴の後の部分は文庫結びの上に乗せることで形がよくなり、また落っこちてきません。
前は帯が少し見えるぐらいに合わせ、紐を結びます。この結び方は宝塚独特で通称“乙女結び”。見かけは普通の蝶々結びのように見えるのですが本当は……ごめんなさい、上手く説明できません。音楽学校生は乙女結びに校章を付けます。
ハイ、これで出来上がり。慣れれば5分。
しかし先ほど私は“面倒くさい”と言いましたね。だって面倒くさいんだもん。何がって? たたむのが大変なの! プリーツスカートを三つ折にたたむ場面を想像して下さい。ねっ? 大変でしょ? 雑にたたむと次回着る時にシワになってます(私はそーゆう時が何度も……)。
宝塚の袴は丈を少し短めに着るのが特徴。娘役は帯と袴を高い位置に、男役は娘役より低い位置に着付けるのも特徴。
着物を着ているというよりロングスカートをはいている感覚なので、歩きにくかったり苦しいなんてことはまずありません。でもやっぱり袴をはくと緊張感が出ます。背筋がピンとしますね。
すみれ売りから始まって、色んな場面で見られるタカラジェンヌの袴姿。だけどこの時以上にファンの方々の心に焼き付けられる場面はないでしょう。
それは――退団者の袴姿。黒紋付に緑の袴で大階段から降りて来て、退団の最後の挨拶をする。誰もが今までよりかっこよくて美しく見える瞬間。
これを着ることはもう二度とありません。タカラジェンヌにとっての緑の袴は“正装”であり“盛装”であり――どんな衣装にも負けない最後の最後の衣装。